Kikuchi Associates

量子ファイナンス

量子ランダムウォークとは何か

量子ランダムウォークは、古典的なランダムウォークの「コイン投げ」を量子力学の操作に置き換えたもの。確率ではなく確率振幅が足し合わされ、干渉が起きる。その結果、分布は時間に比例して広がり、左右対称な初期状態では二つの山をもつ形になる。仕組みと、金融への応用研究の現状を整理する。

前回のノートでは、価格のランダムウォーク仮説が「向き」についてはよく当たり、「振れ幅の分布」については外れることを見た。今回は、その代わりの候補の一つとして研究されている量子ランダムウォークを扱う。名前に「量子」とあるが、量子コンピュータの話から始める必要はない。古典的なランダムウォークの一か所を置き換えるだけで、何が変わるのかを順に見ていく。

古典的なランダムウォーク

数直線の上に一人の歩行者がいる。毎回コインを投げ、表なら右へ1歩、裏なら左へ1歩進む。これを t 回繰り返したとき、歩行者の位置の分布は二項分布になり、t が大きくなると正規分布に近づく。

ここで重要なのは二点である。

  • 各回の結果は確率で表され、確率どうしが足し合わされる。
  • 分布の広がり(標準偏差)は √t に比例する。100歩進んでも、典型的には10歩分しか離れない。

これが前回扱った、価格のランダムウォーク・モデルの骨格である。

量子ランダムウォーク:何を置き換えるのか

量子ランダムウォークは、1993年に Aharonov、Davidovich、Zagury によって提案された(1)。途中で一度も測定しない現在の形は、その後の研究で整備されたものである(2)。ここでは、もっともよく調べられている離散時間の量子ランダムウォークを説明する。

歩行者の状態は、「位置」と「コイン」の二つの部分からなる。コインは表と裏の二つの状態をもつが、量子力学では、その重ね合わせの状態もとりうる。状態は確率ではなく、複素数の確率振幅で表される。

1歩は、次の二つの操作からなる。

  1. コイン操作。 コインの状態に、決められたユニタリ行列を掛ける。代表的なのはアダマール行列で、表の状態を「表と裏の等しい重ね合わせ」に、裏の状態を「表と裏の符号の違う重ね合わせ」に移す。
  2. 条件つきの移動。 コインの表の成分は右へ、裏の成分は左へ1歩ずらす。

古典的なランダムウォークとの違いは、途中でコインを見ないことである。毎回の結果を確定させずに、確率振幅のまま次の一歩に進む。t 歩進んだところで初めて位置を測定し、各位置の確率振幅の絶対値の二乗が、その位置に見つかる確率になる。

干渉が分布の形を変える

途中で測定しないので、ある位置に至る複数の経路の確率振幅が足し合わされる。確率振幅は正にも負にも(一般には複素数にも)なるので、経路どうしが強め合う場所と打ち消し合う場所が生まれる。これが干渉である。

その結果、アダマール行列を使った量子ランダムウォークの分布は、古典的な場合とまったく違う形になる。

  • 中央が薄く、両端に山がある。 原点付近では打ち消し合いが起きやすく、確率は出発点から ±t/√2 のあたりに集中する。
  • 広がりが t に比例する。 標準偏差は √t ではなく t に比例して大きくなる。このような広がり方を、拡散的に対して弾道的と呼ぶ。
  • 分布の台は有限である。 t 歩後に歩行者がいられるのは −t から t の範囲だけで、その外の確率はちょうど 0 である。さらに Konno は、位置を t で割った量の分布が、t を大きくすると −1/√2 から 1/√2 の区間の上の決まった分布に近づくことを示した(3, 4)。つまり t が大きいとき、確率のほとんどは ±t/√2 の内側に収まる。左右対称な初期状態では、この極限の分布の密度は区間の両端に近づくほど限りなく大きくなる(それでも、両端付近の確率の合計は有限である)。両端の山は、この極限の分布の形が表れたものである。
  • 初期状態で左右の偏りが変わる。 コインの初期状態によっては、分布が左右どちらかに偏る。適切な重ね合わせから始めると左右対称になる。

これらの性質は、Ambainis らによる2001年の解析(2)や、Kempe による2003年の入門的な総説(5)で詳しく調べられている。

干渉を失うと古典に戻る

量子ランダムウォークの特徴的な性質は、すべて干渉から来ている。Romanelli らは2004年に(6)、量子ランダムウォークの時間発展を、古典的なマルコフ過程に相当する項と、干渉を表す項とに分けて解析した。分散が t² で増えるのは干渉項によるものであり、各ステップで測定が行われるなどして干渉が失われる(デコヒーレンス)と、分散は古典的なランダムウォークと同じく t に比例する増え方に戻る。

つまり、量子ランダムウォークの特徴的な性質は、古典的なランダムウォークに「干渉」という一つの要素が加わったことから生じている、と見ることができる。

連続時間の量子ランダムウォーク

コインを使わない連続時間の量子ランダムウォークもある。Farhi と Gutmann が1998年に(7)、グラフの上を連続的な時間で発展する量子系として定式化した。離散時間版とは数学的な構成が異なるが、弾道的な広がりなど多くの性質を共有する(5)。量子アルゴリズムの研究では、両方が使われている。

量子コンピュータは要らない

量子ランダムウォークは、もともと量子計算の研究の中で発展してきた。しかし、数直線の上の量子ランダムウォークを調べるだけなら、量子コンピュータは要らない。t 歩後の状態は、位置ごとに二つの複素数(コインの表と裏の確率振幅)を並べたものにすぎず、普通の計算機で正確に計算できる。

この点は、後で「量子インスパイアド」という言葉を整理するときにも効いてくる。以下で紹介する二つの研究は、いずれも量子コンピュータで計算を速くしたことを示すものではなく、量子力学の数学的な形式を、確率分布のモデルとして使うことを中心にしている。量子コンピュータの上で直接実行できることは、Orrell が利点の一つとして挙げ、De Backer らも触れているが、どちらのモデルも普通の計算機で計算できる。

金融への応用研究

量子ランダムウォークを金融に使う研究は、まだ数が多くない。ここでは方向の異なる二つを紹介する。

オプション価格のモデル(Orrell, 2021)

D. Orrell は(8)、二項モデル(古典的なランダムウォークにもとづくオプション価格のモデル)の代わりに、量子ランダムウォークを使うモデルを提案した。投資家が将来の価格について抱く主観的な見通しを、測定される前の量子ランダムウォークとして表し、実際に観測される市場の価格を、測定によって確定した状態として読む、という解釈である。この解釈は、意思決定の心理学で研究されている「量子認知」の考え方を借りている。

Orrell のモデルでは、デコヒーレンスを加えると結果は古典的なモデルにいくらでも近づけられる。外部からの情報の役割をデコヒーレンスとして表す、という読み方も示されている。

収益率の分布のモデル(De Backer ら, 2025)

De Backer らは(9)、量子ランダムウォークから得られる分布を、収益率の分布のモデルとして調べた。比較の相手は、幾何ブラウン運動、レヴィ安定分布、べき分布といった古典的なモデルである。

コイン操作を表す行列の角度や位相、コインの初期状態といったパラメータを動かすと、量子ランダムウォークは左右非対称な分布を作ることができる。また論文は、限られたステップ数(図では100歩)で計算した一部の設定について、正規分布(幾何ブラウン運動)より極端な値の確率が高い分布が得られることを示している。古典的なモデルでは作りにくい分布を表現できる柔軟さがある、というのが主な主張である。

ここで言う「極端な値の確率が高い」は、同じステップ数の古典的なランダムウォーク(ほぼ正規分布)と並べたときの比較であり、分散をそろえたうえで裾の形を比べたものではない。量子ランダムウォークは広がりが t に比例するので、同じステップ数で比べれば、中心から遠い位置の確率が大きくなるのは、広がり方の違いからも生じる。たとえば、もっとも基本的な場合 — 途中で一度も測定しない左右対称なアダマール型 — を標準偏差をそろえて正規分布と比べると、Konno の極限分布から計算して、t が大きいとき確率のほとんどは中心から約1.3標準偏差の内側に収まり、むしろ裾が短い(4)。論文が極端な値の確率が高いと示した分布は、この基本形とは別の設定によるものだが、どの設定でも、t 歩後の分布は −t から t の外に確率をもたない。前回のノートで見た裾は、べき乗則でよく近似され、大きな値に向かってゆっくり減っていく。両端の山は干渉による確率の集中であって、べき乗則の裾ではない。量子ランダムウォークで実際の収益率のべき乗則の裾を説明できるかどうかは、この論文では扱われていない。

同時に、著者たちは二つの限界をはっきり書いている。一つは、柔軟さと引き換えにパラメータが増えること。もう一つは、この論文が理論的な可能性の検討であり、実際の価格データに対する性能の検証は今後の課題であること。また、量子力学の手法を使うことは、市場が量子系だと主張することではない、とも明記している。

まとめ

  • 量子ランダムウォークは、古典的なランダムウォークのコイン投げを量子力学の操作に置き換え、途中で測定せずに確率振幅のまま進めるもの。
  • 経路どうしの干渉によって、分布は両端に山をもち、√t ではなく t に比例して広がる。
  • 分布の台は有限(−t から t)で、べき乗則の裾とは仕組みが異なる。
  • 干渉が失われると、古典的なランダムウォークに戻る。
  • 数直線の上の量子ランダムウォークは、普通の計算機で計算できる。ここで見た二つの応用研究は、量子力学の数学を確率分布のモデルとして使うもの。
  • 金融への応用研究は始まったばかりで、実データでの検証はこれからの段階にある。

次のノートでは、「量子」と名のつく金融の研究を三つの種類に分け、「量子インスパイアド」という言葉が何を指し、何を指さないのかを整理する。

参考文献

  1. Aharonov, Y.; Davidovich, L.; Zagury, N. Quantum random walks. Physical Review A. 1993, vol. 48, no. 2, p. 1687-1690. https://doi.org/10.1103/PhysRevA.48.1687.
  2. Ambainis, A.; Bach, E.; Nayak, A.; Vishwanath, A.; Watrous, J. “One-dimensional quantum walks”. Proceedings of the 33rd Annual ACM Symposium on Theory of Computing. New York, ACM, 2001, p. 37-49. https://doi.org/10.1145/380752.380757.
  3. Konno, N. Quantum random walks in one dimension. Quantum Information Processing. 2002, vol. 1, no. 5, p. 345-354. https://doi.org/10.1023/A:1023413713008.
  4. Konno, N. A new type of limit theorems for the one-dimensional quantum random walk. Journal of the Mathematical Society of Japan. 2005, vol. 57, no. 4, p. 1179-1195. https://doi.org/10.2969/jmsj/1150287309. arXiv:quant-ph/0206103.
  5. Kempe, J. Quantum random walks: an introductory overview. Contemporary Physics. 2003, vol. 44, no. 4, p. 307-327. https://doi.org/10.1080/00107151031000110776.
  6. Romanelli, A.; Sicardi Schifino, A. C.; Siri, R.; Abal, G.; Auyuanet, A.; Donangelo, R. Quantum random walk on the line as a Markovian process. Physica A: Statistical Mechanics and its Applications. 2004, vol. 338, no. 3-4, p. 395-405. https://doi.org/10.1016/j.physa.2004.02.061. arXiv:quant-ph/0310171.
  7. Farhi, E.; Gutmann, S. Quantum computation and decision trees. Physical Review A. 1998, vol. 58, no. 2, p. 915-928. https://doi.org/10.1103/PhysRevA.58.915.
  8. Orrell, D. A quantum walk model of financial options. Wilmott. 2021, no. 112, p. 62-69. https://doi.org/10.1002/wilm.10918.
  9. De Backer, S.; Rocha, L. E. C.; Ryckebusch, J.; Schoors, K. On the potential of quantum walks for modeling financial return distributions. Physica A: Statistical Mechanics and its Applications. 2025, vol. 657, 130215. https://doi.org/10.1016/j.physa.2024.130215. arXiv:2403.19502.

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