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量子ファイナンス

「量子」と名のつく金融の研究を三つに分ける — 量子インスパイアドとは何か、何ではないか

「量子ファイナンス」「量子インスパイアド」という言葉は、性質のまったく違う三種類の研究を指して使われている。量子コンピュータで計算する研究、量子アルゴリズムから着想を得た古典的なアルゴリズム、量子力学の数学で市場を記述するモデル。それぞれが何を主張し、何で評価されるべきかを整理する。

「量子ファイナンス」という言葉を検索すると、量子コンピュータの話、新しいアルゴリズムの話、物理学の方程式で株価を記述する話が、区別なく並んで出てくる。「量子インスパイアド」という言葉も、文脈によって指すものが違う。

これらは、主張していることも、何で評価されるべきかも違う。混ぜたまま読むと、ある研究の成果を別の種類の研究の成果と取り違えることになる。このノートでは、「量子」と名のつく金融の研究を三つに分けて整理する。

1. 量子コンピュータで計算する研究

一つ目は、量子コンピュータという計算機の上で、金融の計算問題を解く研究である。主張は「同じ問題を、古典的な計算機より少ない計算量で解ける」という形をとる。

代表的なのはモンテカルロ法である。デリバティブの価格やリスク量の計算では、乱数で多数の経路を作って平均をとる。古典的なモンテカルロ法では、許す誤差を ε とすると、必要な試行回数は(ばらつきの大きさを一定とすると)およそ 1/ε² に比例する(誤差を半分にするには試行回数が4倍要る)。A. Montanaro は2015年に(1)、量子振幅推定という手法を使うと、ばらつき(標準偏差)が σ 以下に抑えられている確率的な計算について、その平均を誤差 ε で推定するのに必要な呼び出しの回数を、対数の因子を除いて σ/ε に比例する程度まで減らせることを示した(古典的なモンテカルロ法では σ²/ε² に比例する)。ここで数える「呼び出し」は、確率分布を量子状態として用意し、そのうえで損益などの値を計算する量子回路一式(またはその逆向きの回路)を一回動かすことである。古典的に N 回の試行が要る精度を、およそ √N 回の呼び出しで得られる、という意味での「二次の加速」である。計算全体の手間が一律に平方根になるという意味ではない。この回路を効率よく組めることが前提で、分布の準備の仕方によっては加速が失われることも示されている(たとえば Grover–Rudolph 法で対数凹の分布を準備する場合(2))(3)。Rebentrost らは2018年に(4)、これをオプションの価格付けに当てはめる具体的な構成を示している。

ほかにも、ポートフォリオ最適化などの最適化問題や、機械学習への応用が研究されている。Herman らの2022年のサーベイ(3)(同じ著者らによるレビューが2023年に Nature Reviews Physics に掲載されている(5))は、確率モデル・最適化・機械学習の三つの領域について、提案されているアルゴリズムと、それが現在および近い将来の装置で動くかどうかを整理している。

この種類の研究を評価する軸ははっきりしている。

  • 何と比べて速いのか。 比較の相手は、その問題に対する最良の古典的アルゴリズムであるべきだ。
  • その速さは、どんな装置で実現するのか。 理論上の加速には、誤り訂正を備えた大規模な量子計算機を前提にしているものが多い。デリバティブの価格付けについて必要な資源を見積もった研究でも、その規模は現在の装置を大きく超えるとされている(6)。現在の装置で同じ結果が得られるとは限らない。

2. 量子インスパイアドな古典的アルゴリズム

二つ目は、量子アルゴリズムや量子系の研究から着想を得て作られた、普通の計算機で動くアルゴリズムである。ただし「量子インスパイアド」という言葉は、少なくとも三つの異なる文脈で使われていて、それぞれ主張の性質が違う。

計算量の理論での意味:脱量子化

計算量の理論では、「量子インスパイアド」はもっと限られた意味で使われる。量子アルゴリズムの速さが本当に量子性から来ているのかを問う文脈である。

Kerenidis と Prakash は2017年に(7)、推薦システムの問題 — 利用者と商品の評価を並べた行列が、少数の成分でよく近似できる(低ランクである)という前提のもとで、ある利用者に勧める商品を一つ選び出す問題 — に対する量子アルゴリズムを示した。行列を特別なデータ構造に格納し、それを量子的に読み出せるという仮定のもとで、行列の大きさに対しては対数の多項式程度の時間で動く。E. Tang は2019年に(8)、この同じデータ構造が普通の計算機にも、成分の読み出しに加えて、行や成分をその大きさの二乗に比例した確率で取り出す操作を許すことに注目した。そして、この操作を使えば古典的なアルゴリズムでも、行列の大きさに対しては対数程度の時間で同じ種類の出力を得られることを示した。この流れは「脱量子化(dequantization)」と呼ばれる。

この結果の適用範囲は狭い。対象は低ランクの行列を扱う線形代数の問題に限られ、比較は「量子側と同等のデータアクセスの仮定を古典的な側にも置いたとき」のものである。Herman らの2022年のサーベイが指摘するように(3)、脱量子化されたアルゴリズムは行列のランクや求める精度に対して計算量が大きく増えるため、量子アルゴリズムが多項式的な優位を保つ余地は残る。Tang 自身も、ランクと精度への依存が量子側より大きく悪いことを認めている(8)。量子アルゴリズム一般が古典的に置き換えられる、という結果ではない。

最適化の手法としての意味

組合せ最適化の分野では、量子計算機の研究から生まれた考え方を、古典的な計算機の上の数値計算として実装した発見的な手法も「量子インスパイアド」と呼ばれる。量子計算機の方式として提案された量子断熱最適化の研究から着想を得て、対応する古典的な運動方程式を普通の計算機の上で数値的に解く手法がその一例で、Goto らが2019年に示している(9)。この種類の手法は計算量の保証をもたず、実際の問題でどれだけよい解をどれだけ速く見つけるかで評価される。

数値計算の手法としての意味

量子多体系の研究のために発達したテンソルネットワークという数値計算の手法(10)(数値解析の分野でも、テンソル・トレイン分解として独立に整備されている(11))も、物理以外の分野の近似計算に転用されるとき「量子インスパイアド」と呼ばれることがあり、金融ではポートフォリオ最適化への適用例がある(12)。これも普通の計算機で動く近似の手法である。

三つの意味に共通するのは、量子コンピュータを使っていないことだけである。一つ目は前提を限ったうえでの計算量についての定理であり、二つ目と三つ目は実際の問題での性能で評価される手法である。「量子インスパイアド」と書かれていたら、まずどの意味なのかを確かめる必要がある。

3. 量子力学の数学を使って市場を記述するモデル

三つ目は、量子力学の数学的な形式を、市場や投資家の判断を記述するモデルとして使う研究である。計算は普通の計算機で行い、量子コンピュータは使わない。量子の数学を社会科学に用いる研究の全体像は(13)にまとめられている。ただし、この中にも立脚点のまったく違う二つの流れがある。

3a. 物理の方程式を市場に移すモデル

一つは、物理学の方程式を価格の記述に持ち込む流れである。Zhang と Huang は2010年に(14)、粒子と波動の二重性からの類推で株価を一種の量子系とみなし、株価に対して波動関数と作用素を定義して、シュレーディンガー方程式を立てるモデルを提案した。この種類のモデルでは、市場を量子系とみなす前提そのものが、まず問われる。

3b. 量子確率論で判断を記述するモデル

もう一つは、量子力学のヒルベルト空間の形式を、物理系の記述としてではなく、確率を計算する規則の一つとして使う流れである。人の判断は、質問の順番や文脈によって変わることが知られている。古典的な確率論でこうした効果を表すには、順番ごとに別の仮定を足す必要がある。量子力学の確率の規則 — 測定の順番によって結果が変わりうる、非可換な作用素による記述 — を使うと少ない仮定で表せる、というのがこの流れの出発点で、意思決定の心理学では「量子認知」として研究されている(15)。質問の順番による効果について、この規則から前もって導いた予測が、多数の世論調査のデータで確かめられた例もある(16)。ただし、同じモデルから導かれる別の予測を同種のデータで検定した研究では、もっとも単純な形のモデルは多くの場合に支持されていない(17)。Aerts らは2012年に(18)、量子力学を操作の水準から組み立て直した枠組み(SCoP 形式)と、測定の文脈の揺らぎから量子的な確率が生じるとみるモデルを使って、株は取引されるまで確定した価格をもたず、取引という文脈の中で価格が実現する、と論じた。主張の中心は、取引の文脈が、価格の確率に古典的な確率論の枠に収まらない構造を与える、という点にある。ここでの量子力学は、市場が物理的に量子系であるという主張ではなく、文脈によって変わる判断を記述するための数学である。

量子ランダムウォークのモデルはどこに入るか

前回のノートで扱った量子ランダムウォークのモデルは、二つの流れの間にある。De Backer らは(19)、量子ランダムウォークを収益率の分布を作る数学的な仕組みとして現象論的に使っており、市場が量子系だとは主張していない。Orrell は(20)、量子ランダムウォークに量子認知の解釈を与えている。なお De Backer らは、自分たちの方法を「量子インスパイアド(quantum-inspired)」と呼んでいる。この言葉は、2 の意味(計算量の定理や計算手法)だけでなく、この種類のモデルにも使われる。ここでの意味は、量子力学の数学を確率分布のモデルに借りるということであり、計算が速くなるという主張ではない。

評価の軸

どちらの流れでも、評価の軸は計算の速さではなくモデルとしての良さである。

  • 実際のデータをどれだけよく説明するか。
  • 既存のモデル(たとえば GARCH 型のモデル(21)や安定分布(22))と比べて、何が説明できるようになったのか。
  • その代わりに増えたパラメータに見合うか。
  • パラメータに、市場の側での意味を与えられるか。

3a ではこれに加えて市場を量子系とみなす前提の妥当性が、3b では判断の文脈効果が実際に観測されているかどうかが問われる。

三つを並べる

1. 量子計算2. 量子インスパイアド3. 量子の数学によるモデル
計算機量子コンピュータ普通の計算機普通の計算機
主張の形同じ問題を少ない試行・計算で解ける前提を限った計算量の定理、または実用上の性能現象や判断をよりよく記述できる
比べる相手最良の古典的アルゴリズム量子アルゴリズム、または既存の手法既存の統計モデル(3b では古典確率による判断のモデル)
確かめること装置の規模と誤り、データを用意する前提どの意味か。定理なら仮定とランク・精度への依存、手法なら比較の条件実データへの当てはまり、パラメータの数、前提の妥当性(3a)、文脈効果の観測(3b)

読むときの三つの問い

「量子」を名乗る金融の研究や製品の説明を読むときは、次の三つを問うと、主張の中身が見えやすくなる。

  1. どの意味の「量子」か。 量子コンピュータを使っているのか、量子アルゴリズムから着想を得た古典的な計算なのか、量子力学の数学をモデルとして使っているのか。
  2. 何と比べているのか。 比較の相手が、その問題に対する標準的な方法になっているか。
  3. どこで確かめたのか。 理論上の可能性なのか、模擬データでの結果なのか、実際のデータでの検証なのか。

三つの種類はどれも、それぞれの問いに対しては正当な研究である。混乱が生まれるのは、ある種類の研究の主張(たとえば「量子コンピュータで速くなる」)を、別の種類の研究(たとえば普通の計算機で動くモデル)に重ねて読んだときである。

この連載は、量子ファイナンスと経済物理学の公開された研究を幅広く扱う。特定の量子計算機の性能を評価したり、その見通しを述べたりするものではない。

参考文献

  1. Montanaro, A. Quantum speedup of Monte Carlo methods. Proceedings of the Royal Society A. 2015, vol. 471, no. 2181, 20150301. https://doi.org/10.1098/rspa.2015.0301.
  2. Herbert, S. No quantum speedup with Grover-Rudolph state preparation for quantum Monte Carlo integration. Physical Review E. 2021, vol. 103, no. 6, 063302. https://doi.org/10.1103/PhysRevE.103.063302. arXiv:2101.02240.
  3. Herman, D.; Googin, C.; Liu, X.; Galda, A.; Safro, I.; Sun, Y.; Pistoia, M.; Alexeev, Y. A survey of quantum computing for finance. arXiv. 2022, arXiv:2201.02773. https://arxiv.org/abs/2201.02773.
  4. Rebentrost, P.; Gupt, B.; Bromley, T. R. Quantum computational finance: Monte Carlo pricing of financial derivatives. Physical Review A. 2018, vol. 98, no. 2, 022321. https://doi.org/10.1103/PhysRevA.98.022321.
  5. Herman, D.; Googin, C.; Liu, X.; Sun, Y.; Galda, A.; Safro, I.; Pistoia, M.; Alexeev, Y. Quantum computing for finance. Nature Reviews Physics. 2023, vol. 5, no. 8, p. 450-465. https://doi.org/10.1038/s42254-023-00603-1. arXiv:2307.11230.
  6. Chakrabarti, S.; Krishnakumar, R.; Mazzola, G.; Stamatopoulos, N.; Woerner, S.; Zeng, W. A threshold for quantum advantage in derivative pricing. Quantum. 2021, vol. 5, 463. https://doi.org/10.22331/q-2021-06-01-463. arXiv:2012.03819.
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  8. Tang, E. “A quantum-inspired classical algorithm for recommendation systems”. Proceedings of the 51st Annual ACM SIGACT Symposium on Theory of Computing. New York, ACM, 2019, p. 217-228. https://doi.org/10.1145/3313276.3316310.
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