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量子ファイナンス

Kyleモデルに量子ランダムウォークを入れると、均衡はどう変わるか — Liew & Rebentrost(2026)を読む

Kyle(1985)のモデルは、ほかの参加者が知らない情報をもつ取引者の注文が、価格にどう織り込まれるかを説明する。2026年10月に公開されたLiewとRebentrostのプレプリントは、このモデルで資産の将来価値の分布を、古典的なランダムウォークから連続時間の量子ランダムウォークに置き換え、均衡を数値的に求めた。何を置き換え、何が見え、何がまだ言えないのかを整理する。

本稿では、2026年10月5日にarXivで公開された査読前のプレプリント、H. W. Shawn LiewとPatrick Rebentrostの「Informed trading model with quantum walks」(1)を紹介する。著者の所属はシンガポール国立大学の量子技術センター(Centre for Quantum Technologies)で、Rebentrostは同大学の計算機科学の学部(School of Computing)にも属している。

題材は、市場の微視的な構造(マーケット・マイクロストラクチャー)の理論で繰り返し参照されてきたKyle(1985)のモデル(2)である。この論文は、量子ランダムウォークを、参加者が互いの行動を読み合って決まる均衡のモデルの中に置いている。

なお、モデルに出てくる「インサイダー」や「情報をもつ取引者」は、ほかの参加者が知らない情報をもつ参加者を表す理論上の役割である。本稿は、内部者取引の法的な扱いを論じるものではない。

この論文を取り上げる理由

これまでのノートで紹介した、量子ランダムウォークを金融に当てる研究は、主に価格や収益率がどんな分布になるかを扱ってきた。De Backerらは収益率の分布のモデルとして(3)、Orrellはオプション価格のモデルとして(4)、量子ランダムウォークを使っている。この論文の問いは違い、情報をもつ取引者の注文が価格にどう織り込まれるか、つまり価格形成と市場の厚みを扱う。筆者は、このノートで見てきた範囲では、量子ランダムウォークの金融への応用で問われることが、分布の記述から価格形成の仕組みへと広がる例として、この論文を読めると考える。

もう一つの理由は、設計の読みやすさである。論文は、Kyleモデルのうち将来価値を与える確率過程だけを古典的なランダムウォークと量子ランダムウォークのあいだで差し替え、モデルのほかの設定は共通にしている(数値計算の設定は両者で異なる)。そのため筆者は、結果の違いを差し替えの影響として切り分けやすいと考える。ただし、後の「読み方:広がりの違いと形の違いを分ける」の節で見るように、その違いには分布の幅によるものと形によるもの(量子の場合のラムダの測り方の問題も含む)が混ざっており、分けて読む必要がある。

一方で、この論文は査読前のプレプリントであり、計算はt≦23の範囲に限られ、実際の市場のデータは使っていない。本稿はこの論文を、量子ランダムウォークで市場が説明できるという主張としてではなく、モデルの性質を調べた研究として紹介する。

Kyleモデルは何を説明する道具か

Kyleは論文の冒頭で、次の問いを掲げている。新しい私的な情報は、どれだけ速く価格に織り込まれるのか。私的な情報は、その持ち主にとってどれだけの価値があるのか。ノイズ取引は価格の変動にどう影響するのか。市場の流動性は何で決まるのか(2)。Kyleは、情報をもつ取引者の最適な行動を組み込んだ価格形成のモデルを立て、これらの答えをそこから導こうとした。

登場するのは三種類の参加者である。

  • 資産の将来の価値(清算価値)を一人だけ知っている、リスク中立の情報保有者(Kyleの用語ではinsider)。
  • 情報と関係なく、ランダムな量を売買するノイズ取引者。
  • 注文の合計(オーダーフロー)だけを見て価格を決める、競争的でリスク中立なマーケットメイカー。

一回の取引(Kyleの用語ではオークション)は二段階で進む。まず、情報保有者とノイズ取引者が同時に注文量を決める。次に、マーケットメイカーが注文の合計を見て価格を決め、その価格で約定させる。マーケットメイカーには情報保有者の注文とノイズ取引者の注文の区別がつかないので、ノイズ取引は情報保有者の注文を覆い隠す役割を果たす。マーケットメイカーどうしの競争によって、価格は、注文の合計を知ったうえでの将来価値の条件付き期待値に等しくなり、マーケットメイカーの利益は期待値でゼロになる(2)。情報保有者は、自分の注文が価格を動かすことを織り込んで、自分の期待利益が最大になる注文量を選ぶ。

将来価値とノイズ取引の量がどちらも正規分布に従うとき、Kyleは、情報保有者の戦略とマーケットメイカーの価格の決め方がどちらも一次式になる均衡を求め、一次式の均衡の中ではそれが唯一であることを示した(2)。価格は「初期の価格+λ×注文の合計」の形になる。この係数λは、注文が価格を動かす大きさ(価格インパクト)を表し、Kyleのラムダと呼ばれる(1)。λは、将来価値の標準偏差をノイズ取引の標準偏差で割ったものの半分に等しい。その逆数1/λは、価格を1単位動かすのに要る注文の量、つまり市場の厚み(depth)である。この均衡では、情報保有者の私的な情報の半分が価格に織り込まれる。情報保有者の期待利益は二つの標準偏差の積の半分で、Kyle自身が述べるように、将来価値とノイズ取引のそれぞれの標準偏差に比例する(2)。この最後の性質は、後で論文の結果を読むときに効いてくる。

Kyleはさらに、取引を何回にも分けた逐次オークションのモデルと、その間隔をゼロに近づけた連続取引のモデルを扱った。連続取引の均衡では、価格はブラウン運動に従い、市場の厚みは時間によらず一定で、取引が終わるまでにすべての私的な情報が価格に織り込まれる(2)。今回の論文が使うのは、このうち一回だけのオークションのモデルである。

一次式の均衡が得られるのは、正規分布を仮定しているからである。Kyleの証明でも、注文の合計から将来価値を推定する回帰が一次式になるのは正規性による、と明記されている(2)。将来価値の分布を正規分布以外のものに変えれば、均衡が一次式になる保証はない。今回の論文は、まさにこの仮定を動かしている。

連続時間の量子ランダムウォーク

「量子ランダムウォークとは何か」の回では、コインを使う離散時間の量子ランダムウォークを中心に扱い、コインを使わない連続時間の版には短く触れただけだった。今回の論文が使うのは、この連続時間の版である。

連続時間の量子ランダムウォークは、FarhiとGutmannが1998年に、グラフの上を連続的な時間で発展する量子系として定式化したものである(5)。コインはなく、隣り合う頂点のあいだで確率振幅が移り合うことを表す演算子(ハミルトニアン)によって、状態が時間とともに発展する。数直線の上で原点から出発させると、時刻tに各位置にいる確率振幅は第一種ベッセル関数で閉じた形に書け、その位置にいる確率はベッセル関数の二乗になる。論文はこの導出を一から示している(1)。

性質は、離散時間の版とよく似ている。

  • 広がりがtに比例する。 古典的なランダムウォークの標準偏差は√tに比例するが、量子ランダムウォークの標準偏差はtに比例する。これを弾道的な広がりと呼び、離散時間の版については(6)に詳しい。連続時間の版では、確率振幅がベッセル関数で書け、一定の速さで広がり、その先端より外では急速に小さくなることを、FarhiとGutmannが示している(5)。論文のハミルトニアンの規格化(1)のもとで、ベッセル関数の漸化式と和の公式(DLMF 10.6.1、10.23.3、10.23.4(7))を使うと、位置の二乗の期待値はちょうどt²/2になる(筆者の計算)。つまり位置の標準偏差はt/√2である。
  • 両側の端の近くに山がある。 論文の図では、確率は出発点から離れた両側の端の近くに集まり、その内側では位置ごとに細かく上下する(1)。
  • ただし台は有限ではない。 離散時間の版ではt歩後の分布が−tからtの外に確率をもたなかった。連続時間の版では、論文が計算する整数のtについて、どの位置の確率も0にならない(1)(実数のtでは、ベッセル関数の零点(DLMF §10.21(7))に当たって、ある位置の確率が0になる時刻がある)。先端より外では、確率は急速に小さくなる(5)。論文は計算の収束の都合で有限の範囲に打ち切っており、その範囲の内側に確率の1−10⁻⁸超が入っていたと報告している(1)(後述)。

離散時間の回で見たとおり、こうした性質は確率振幅の干渉から生じる。一方、古典的なランダムウォークの位置の分布は二項分布で、tが大きくなると正規分布に近づく。この論文は、Kyleモデルの将来価値の分布として、この二つを入れ替えたときに何が変わるかを調べている。

論文は何を置き換え、何を計算したか

設定

資産の将来価値の候補を、一定の刻みsで並んだ格子の上の値(初期の価格+s×j、jは整数)とする。将来価値がその値をとる確率を、時刻tのランダムウォークが位置jにいる確率と等しく置く。古典の場合は二項分布、量子の場合はベッセル関数の二乗である。数値計算では刻みをs=0.1とし、ノイズ取引の量を平均0・分散1の正規分布とした(1)。

注意したいのは、tが取引の回数でも、取引の時刻でもないことである。モデルはあくまで一回だけのオークションであり、tは、オークションの前に将来価値の分布がどれだけ広がっているかを決めるパラメータとして使われている。tを動かすことは、主にKyleの正規分布のモデルで将来価値の分散を動かすことに当たる。ただし、分布の形も同時に変わる。古典の場合は二項分布が正規分布に近づいていき、量子の場合は分布の中の振動の数が増える。

解析的な一歩

著者たちはまず、解析的な近似を試みている。マーケットメイカーが一次式の価格の決め方をとると仮定すると、情報保有者の最適な注文も一次式になる。その注文を前提にマーケットメイカーの価格の決め方を計算し直すと、量子の場合、結果はもはや一次式ではなく、双曲線関数の重み付きの和どうしの比という非線形な形になる。論文はさらに、計算し直した価格の決め方の傾き(価格インパクト)が、注文の合計を見たあとにマーケットメイカーに残る将来価値の不確かさ(条件付き分散)に比例することを導き、マーケットメイカーが将来価値について確信をもてないところほど価格インパクトが大きい、と読んでいる(1)。

ただし、これは反復の一回目にすぎず、均衡そのものではない。著者たちは、この方向の解析はすぐに手に負えなくなるとして、数値計算に移っている。

数値計算

均衡とは、情報保有者の戦略とマーケットメイカーの価格の決め方の組で、それぞれが相手に対する最適な応答になっているものである。論文はこれを固定点として扱い、価格の決め方から情報保有者の最適な注文を計算し、その注文から価格の決め方を計算し直す、という反復で求めている。反復はAnderson加速(8)で速め、残差が10⁻⁴以下になることを収束の基準とした(1)。

量子の場合について、著者たちは、収束の質が反復の設定(格子の取り方、価格の決め方の初期値、加速の設定、将来価値を打ち切る範囲)に非常に敏感だったと書いている。そのため、ハイパーパラメータ最適化のソフトウェアOptuna(9)で設定を100通り試し、収束の基準を満たしたもののうち、将来価値を打ち切る範囲がもっとも広い設定を採った。打ち切りの範囲はこの探索で決まったもので、選ばれた範囲の内側の確率の合計は、すべてのtで1−10⁻⁸を超えていた(1)。

計算したtは1から23までの整数である。量子の場合、tが大きいと均衡が見つからなかったためで、比較のために古典の場合も同じ範囲にそろえている。情報保有者の期待利益は、求めた均衡のもとで取引を20万回模擬して平均したものである(1)。

計算はすべて、普通の計算機による数値計算である。量子ランダムウォークの確率分布は閉じた式で書けるので、量子計算機は要らず、論文にも量子計算機を使った計算は出てこない。ここでの「量子」は、将来価値の分布の形を与える数学のことである。

何が見えたか

古典的なランダムウォークの場合

情報保有者の戦略は、ほぼ一次式になった(直線への当てはめの決定係数は、すべてのtで0.996を超える)。価格の決め方は、注文の合計が0の近くでは直線に近く、注文が大きくなると頭打ちになる。全体としてはロジスティック曲線に似た形である。頭打ちになるのは、二項分布の将来価値が初期の価格の±stの範囲に収まり、価格もその外に出ないためである。注文の合計が0の近くの傾きとして測ったラムダは、t=2から23の範囲で、おおむねtの0.491乗に比例して増える(t=1は外れ値)(1)。

量子ランダムウォークの場合

情報保有者の戦略は、いくつかのまとまり(クラスタ)に分かれ、まとまりのあいだに大きな隙間ができる。それに対応して、価格の決め方には複数の跳びが現れる。数値で得た均衡の価格の決め方は、先の解析的な一歩で得た形とある程度似ている、と著者たちは述べている。ラムダは、tにほぼ比例して増える(直線への当てはめの決定係数は約0.9999)(1)。

情報保有者の期待利益 — モデルの中の参加者の期待値であり、実際の市場での成績ではない — のtへの依存は、古典の場合はtのおよそ0.69乗、量子の場合はtにほぼ比例する形と報告されている(1)。著者たちが強調するのは、量子の場合に均衡の形が強く非線形になるにもかかわらず、この依存は直線に近い、という点である。

著者たちは、ラムダの増え方の違いを、量子ランダムウォークの弾道的な広がりと古典的なランダムウォークの拡散的な広がりの違いによるものとしている(1)。

読み方:広がりの違いと形の違いを分ける

この説明は、Kyleの正規分布のモデルに照らすと見通しがよくなる。以下の検算は論文にはなく、筆者が論文の式と数値から行ったものである。

Kyleの均衡では、ラムダは将来価値の標準偏差の半分をノイズ取引の標準偏差で割ったもの、情報保有者の期待利益は二つの標準偏差の積の半分である(2)。論文の設定(格子の刻み0.1、ノイズ取引の分散1)では、将来価値の標準偏差は、古典的なランダムウォークで0.1×√t、量子ランダムウォークで0.1×t/√2になる(「連続時間の量子ランダムウォーク」の節)。これをKyleの式に入れた値を、ここでは「正規分布の基準」と呼ぶ。基準のラムダは、古典で0.05×√t、量子で約0.0354×tである。

まず、増え方(tの何乗か)を比べる。古典の当てはめ(tの0.491乗)は√tにほぼ合い、量子のラムダはtに比例する。ラムダの増え方の違いは、同じtで分布の幅が違うことでほぼ説明できる。これは著者たちの説明と食い違わない。

次に、水準を比べる。古典では、論文の当てはめの式(1)は係数まで基準とほぼ一致する(たとえばt=10で、当てはめが約0.161、基準が約0.158)。一方、量子の場合のラムダの傾き(約0.0517)は、基準の傾き(約0.0354)の約1.46倍ある。期待利益(モデル内の期待値で、市場での成績ではない)も、量子の場合の傾き(約0.0407)は、基準の傾き(約0.0354)より約15%大きい。標準偏差あたりで比べると、量子の場合の均衡は正規分布のKyleモデルから見込まれる値からずれており、この差は分布の幅だけでは説明できない。ラムダの差には、二つの候補が考えられる。一つは分布の形による効果である。もう一つは測り方で、量子の場合のラムダを価格の決め方のどの範囲の傾きとして測ったのかは明示されておらず、跳びのある価格の決め方では、範囲によって傾きが変わる(後述の「前提と限界」)。一方、期待利益の差(約15%)は20万回の模擬の平均なので、この測り方の影響を受けない。いずれにしても、差が分布の形による効果かどうかは、論文からは判断できない。

したがって、この論文の結果は、幅による部分と形による部分を分けて読む必要がある。ラムダの増え方はおもに幅で説明でき、標準偏差あたりの水準の差と均衡の非線形な形には、幅以外の要因が含まれる。比較が分散をそろえずに同じtで行われている点は、「量子ランダムウォークとは何か」の回で、分布の「極端な値の確率」を同じステップ数で比べたときに指摘したのと同じ型の注意である。

量子ランダムウォークに固有の効果があるとすれば、それが現れているのは、均衡のスケールのtに対する増え方ではなく、むしろ均衡の「形」の方である。ただし、均衡が非線形になること自体は量子に特有ではない。正規分布以外の分布のもとでのKyle型の均衡は以前から調べられており(10)、非線形の均衡を扱った研究もある(11, 12)。この論文の古典の場合も、将来価値の分布が有限の範囲に収まるため、価格の決め方は頭打ちになり、一次式からずれている。正規分布の仮定を外せば、一次式の均衡は保証されない。量子の場合に特徴的なのは、まとまりと跳びが複数現れることで、論文はこれを量子ランダムウォークに由来する振動の現れとしている(1)。分布が両端に山をもち内側で細かく上下するという形が、価格の決め方のどの跳びにどう対応するのかまでは、論文では詳しく分析されていない。

もう一点、読む側として確かめたいことがある。正規分布の基準では、ラムダと期待利益は同じ標準偏差に比例するので、古典の場合はどちらもおよそ√tに比例すると見込まれる。論文の古典の結果では、ラムダの当てはめは指数(0.491)だけでなく係数まで基準とほぼ一致するのに、期待利益の指数(0.69)は0.5から離れている。期待利益の当てはめについては、式の形(切片を含むか、t=1を含むか)が本文に示されていない。この差がどこから来るのかは、論文の本文では議論されていない。

前提と限界

論文の主張を読むときは、次の前提と限界を合わせて押さえておく必要がある。

  • 査読前のプレプリント(v1)である。 査読を経て、結果や解釈が変わる可能性がある。
  • 計算はt=1から23に限られる。 量子の場合、それより大きいtでは均衡が見つからなかった。tが大きいときの振る舞いは、この論文からはわからない。
  • 均衡は固定点反復による数値解である。 収束が反復の設定に敏感だったことは、著者たち自身が書いている。得られた均衡が唯一かどうかは示されていない。
  • パラメータは固定されている。 ノイズ取引の量は平均0・分散1の正規分布、将来価値の格子の刻みは0.1で、これらを動かしたときの結果は示されていない。
  • 量子の場合のラムダの測り方が明示されていない。 古典の場合は注文の合計が0の近くの傾きである。量子の場合は、序論に「線形の領域で」とあるだけで、跳びのある非線形な価格の決め方のどの範囲の傾きとして測ったのかは示されていない。
  • 一回だけのオークションのモデルである。 Kyleの逐次オークションや連続取引の版に量子ランダムウォークを入れたものではない。
  • 実際の市場のデータは使っていない。 将来価値の分布を量子ランダムウォークで与える理由を、市場の側の観測から根拠づけることもしていない。論文が示しているのは、二つのモデルの性質の比較である。
  • コードとデータの公開は確認できない。 本文に公開についての記載はなく、arXivの論文のページにもコードへのリンクはない(2026年10月26日閲覧)。

何が言えて、何が言えないか

この論文から言えるのは、次のことである。

  • Kyleの一回のオークションのモデルで、将来価値の分布を連続時間の量子ランダムウォークの分布に置き換えると、t≦23の数値計算の範囲では、情報保有者の戦略がいくつかのまとまりに分かれ、価格の決め方に複数の跳びが現れる均衡が得られた。
  • 解析的な一歩からは、価格インパクトが、注文を見たあとにマーケットメイカーに残る不確かさに比例するという関係が出る。この関係は将来価値の分布によらず成り立つ一般的なもので、量子ランダムウォークに特有ではない。量子に固有なのは、その条件付き分散が注文の合計に対してどういう形をとるかである。
  • ラムダの増え方の違い(tに比例するか、√tに近いか)は、二つの分布の広がり方の違いでほぼ説明できる。ただし標準偏差あたりで比べると、量子の場合のラムダは正規分布の基準の約1.5倍あり、この差は幅だけでは説明できない(筆者の検算)。

一方、この論文からはまだ言えないことも多い。

  • 実際の市場で、将来価値の分布がこのような形をしていること。論文はこれを検証していない。
  • tが大きい範囲や、ノイズの大きさ・格子の刻みを変えた場合にも、同じ結果になること。
  • 量子ランダムウォークの効果を、分布の幅の効果から切り分けた結論。比較は同じtで行われており、分散をそろえていない。標準偏差あたりの水準の差が分布の形によるものかどうかも、論文からは判断できない。
  • 量子計算機で金融の計算が速くなること。この論文はその種類の研究ではない。「量子インスパイアド」の回の分類でいえば、量子力学の数学を確率分布のモデルとして使う研究に入る。

Kyleモデルは、正規分布の仮定を外す、資産を複数にする、リスク回避的な参加者を入れる、といった方向に拡張されてきた(1)。この論文は、その将来価値の分布に量子ランダムウォークを持ち込んだ試みとして読める。結果を受け取るには、数値計算の範囲と、比較の条件を確かめたうえで読む必要がある。


この連載は、量子ファイナンスと経済物理学の研究を、公開された論文から解説するものである。特定の市場や資産の見通しを述べるものではない。

参考文献

  1. Liew, H. W. S.; Rebentrost, P. Informed trading model with quantum walks. arXiv. 2026, arXiv:2610.06779. https://arxiv.org/abs/2610.06779.
  2. Kyle, A. S. Continuous auctions and insider trading. Econometrica. 1985, vol. 53, no. 6, p. 1315-1335. https://doi.org/10.2307/1913210.
  3. De Backer, S.; Rocha, L. E. C.; Ryckebusch, J.; Schoors, K. On the potential of quantum walks for modeling financial return distributions. Physica A: Statistical Mechanics and its Applications. 2025, vol. 657, 130215. https://doi.org/10.1016/j.physa.2024.130215. arXiv:2403.19502.
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